岡山後楽園の「井田(せいでん)」は、実物の縮小サイズ
日本三大名園とは、水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園です。
それぞれに個性があり、楽しめます。
この三大名園の中でも、「特別名勝」と冠が付くのは、岡山の後楽園です。
後楽園全般の話は、別の機会に置いておいて、今回は後楽園の庭園の中にある「田んぼ」の話です。
後楽園庭園の真ん中に、大きな池があります。
その池の隣に、「田んぼ」があります。
後楽園のガイドの説明を聞かなければ、ただの「田んぼ」にしか見えません。
逆に、なぜ特別名勝の庭園に「田んぼ」なんか造っているのかと思うほどです。
後楽園を航空写真で見ると、面白いことに気づきます。
(国土地理院の航空写真を利用させていただきました)
「田んぼ」は正方形で、9等分されているのがわかります。
これは、古代中国の周の時代(紀元前10世紀頃)の租税法である「井田(せいでん)制度」の模型(縮小サイズ)なのです。
「井田制度」とは、正方形の土地を「井」の形に9等分(9区画)したのもです。
各区画を、「一の町」から「九の町」と呼び、一から八まで八軒の農家の私田(私有地)になります。
「九の町」の区画を「公田」と呼び、さらに2割と8割に分割します。
そして、2割の土地は、8軒の農家の共同作業場「盧舎(ろしゃ)」となります。
残りの8割の土地は、8軒の農家共同で作物を作り、収穫物を税金(租税)として領主に収めるというルールです。
土地の収穫物の約1割を租税として収めるという、かなり理想的な農地税制度なのです。
中国の周の時代に定められた、「公平な税法」と言われますが、現在の中国にその名残はありません。
後楽園の「井田」の画像です。
庭園の中心部にある築山の上から見ると、「井田」が9区画からなることがよくわかります。
今回訪問時には、「九の町」区画にはハス(レンコン)が植えられていました。
しかしながら、「九の町」区画の2割相当部分は「盧舎」として空き地にしてありました。
忠実に再現してあるのです。
「井田」の実物が備前市に残っている
よほど古代史や税制度の歴史に関心がある人でなければ、「井田制度」は興味がないと思うのです。
私もその一人だったはずなのですが、なぜか引き込まれてしまいました。
それは、後楽園を案内してくださった方から、「備前市」に行けば「本物の井田」があると教えていただいたことによります。
早速、備前市役所を訪れて、「井田」の場所を教えていただきました。
「井田」から上納された税金が、歴史的にも有名な池田藩の藩学校である「閑谷(しずたに)学校」の運営費に充当されていたということも教えていただきました。
教えていただいたのは井田(いた)地区という場所。
航空写真で見ると、その形状がよくわかります。
長方形と正方形の「井田(せいでん)」が二面あります。
中国の周時代の井田制度では、一区画が182アール(Wikipedia:井田制)で、各区画の一辺が130メートルほどとのこと。
ということは、周時代の井田を形成するには一辺が130メートル✖️3区画=約400メートルという規模になります。
備前市に残る井田遺構の規模は、一区画が100アールと上記案内板に記載されていますから、一区画の一辺は100メートルになります。
ということは、一つの井田を形成するには一辺が100メートル✖️3区画=約300メートルという規模になります。
後楽園の井田は、約10分の一(私田1区画の一辺が約10メートル)
さて、その「井田」の遺構の中には、石碑と説明看板がありました。
(看板の文字や地図が消えかかった部分は、補正してあります)
この石碑のとなりに、現地のミニチュア模型が作られていたので、わかりやすいです。
現地を歩いてみると、一般的な田んぼと比べて、私田区画を分ける畦道が道路のように広いことがわかります。
この井田地区の井田遺構を縦断するように、JRの線路が通っています。
おかげで肉眼では井田遺構全体を見渡すことができなくなていますが、航空写真というもので鳥のように地上を見ることができる時代になりました。