栃木県 烏山の山あげ行事は、日本一の移動式屋台劇

ユネスコ無形文化遺産に登録された行事

2016年12月、那須烏山の「山あげ行事」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

ユネスコ無形文化遺産 山・鉾・屋台行事 一覧 烏山の山あげ行事
その12月に、記念行事として「冬の山あげ」という特別記念開催がありました。
その時のブログ記事がこれです。

過去記事_冬の山あげ
http://kono1.jp/festival/festival12976

2017年7月開催に2日間行ってきた

2017年は、7月20日(木/宵祭)・21日(金)・22日(土)・23日(日)。
私は21日と22日の二日間、楽しんできました。

まずは、山車パレードの動画

特に、今回はユネスコ登録記念として、特別に6台の屋台(やたい)のパレードが22日にありました。
地元の方も、滅多にないことだよと話されました。
(下記画像は5台しか写っていません、鍛冶町の皆さん申し訳ありません)

山あげの山車5台の画像 パレード

定点で15分ほどの撮影ですが、1分14秒の早送り(タイムプラス)に加工しました。

今年の当番町は、仲町

烏山の山あげ行事は6台の屋台があり、毎年交代で当番になります。
今年は、「仲町」が当番町でした。
仲町は、宵山を含めた四日間で、18か所に移動して奉納余興と呼ばれる野外歌舞伎「戻橋」、「将門」、「乗合船」などを披露しました。

芸題「戻橋」

芸題「将門」については、昨年12月の「冬の山あげ」(上記ブログ)にて紹介しましたので、今回は公演回数が最も多かった「戻橋」を紹介します。

公演会場(烏山駅周辺の道路)に向かう、仲町の屋台と舞台大道具

道路上に組み立てられる舞台装置
山あげ行事 那須烏山 ユネスコ 将門 戻橋 常磐津 移動舞台

ある日の夜更け、渡辺綱(つな)は、京都の一条戻橋で、一人の美女小百合と出会う。
注1:一条戻橋とは、京都の魔界スポットの一つで、死者が蘇ったという逸話が残る。
注2:渡辺綱は、平安時代中期の武将で、源氏の家柄。

渡辺綱は、夜更けに女性が一人でいることを不審に思い、家まで送ろうと申し出る。

送る途中、「一条戻橋」で川面に映った小百合の影が鬼女になったことに渡辺綱は気がついた。

小百合の本性を見破った渡辺綱は、成敗しようとすると、小百合は鬼女に変身した。

太刀まわりの末、渡辺綱は、鬼女の腕を切り落とし、鬼女は山に逃げ帰った。

一条戻橋について

現在の京都「一条戻橋」は、大きな道路にかかる橋ですが、欄干には「戻橋」の名が刻まれています。
晴明神社 安倍晴明 一条戻橋 式神 橋 霊界 死者 蘇る 魔界 

「一条戻橋」の近くにある、陰陽師 安倍晴明を祀る「晴明神社」の境内には、大正時代に使われていた「戻橋」が実寸大で復元されています。大きさに注目したいのは、現在の一条戻橋に比べて小さいこと。平安時代は木造だったと思われますが、これくらい小さい橋だったと思われます。
橋の横に置かれた石像は、安倍晴明が妖術を使う時に、影で動いていた醜い式神(しきがみ)。妖術と言いながら、実際は戻橋の下に住んでいた貧しい人間を利用して政敵などを殺していたというのが京都人から聞いた話です。
晴明神社 安倍晴明 一条戻橋 式神 橋 霊界 死者 蘇る 魔界 

夜の公演も幻想的

移動舞台の公演は、夜もあります。最終公演の開始時刻は、日によって20時半、21時、21時半と遅い時間帯ですが、舞台の到着時刻が遅れ開始時刻がずれ込むことも度々、
ですが、観客は誰も文句を言いません。
若衆が1日動き回って、疲れ切っていることを知っているのです。
最終公演の観客は、ほとんど地元の住民です。
22日(土)の最終公演「将門」の3場面です。

21時、舞台の組み立て中
山あげ行事 那須烏山 ユネスコ 将門 戻橋 常磐津 移動舞台

舞台背後の山(中山、大山)の滝の部分から、花火が滝のように流れ落ちる
山あげ行事 那須烏山 ユネスコ 将門 戻橋 常磐津 移動舞台

山あげ行事 那須烏山 ユネスコ 将門 戻橋 常磐津 移動舞台

正体がばれた鬼女(将門の娘)が、山に逃げ帰る。
山あげ行事 那須烏山 ユネスコ 将門 戻橋 常磐津 移動舞台

舞台背後に、セブンイレブンの看板の明かりが煌々と光っていたのが気になりましたが、これも野外劇の特徴かと、無理やり自分を納得させたのでした。

プログラムに載っていない余興

22日(土)の最終公演前のハプニング。
最終公演の場所は、ひとつ前の公演場所から、わずか100メートルほど離れたところでした。
そろそろ山車や舞台が移動してくるかと待っていると、アナウンスがありました。
「これから、舞台装置を手持ち移動しますので、盛大な応援をお願いします」

その後、台車に乗せられて移動するはずの舞台装置が若衆によって次々と、手持ちにより運ばれたのです。
疲れ切っているはずの若衆が、力を振り絞って頑張りました。

この「手持ち移動」は、毎年いつあるかはわからないとのこと。
移動場所が近く、台車に乗せるより手持ち移動の方が早いという条件が必要だそうです。

末長く存続を願う、山あげ行事でした。

那須烏山の場所

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